神武天皇 像静岡県焼津市焼津2丁目 焼津神社古事記によると、天照大神【アマテラス】が、孫の瓊瓊杵尊【ニニギノミコト】が地上に統治者として降り立ち、(天孫降臨)さらに瓊瓊杵の孫にあたるのが、初代 神武天皇(カムヤマトイワレヒコ)です。生まれながらにして明達で強い意志を持つカムヤマトイワレヒコは、日向国を発って東征の旅に出て、15年以上の歳月をかけて豊後、筑紫、阿岐、吉備、難波と旅を続け、紀伊半島を回って大和の国へとたどり着き、豪族らの抵抗に遭いながらも八咫鳥(やたがらす)に導かれて畝傍の地に入り、初代 天皇として橿原宮にて即位しました。神武天皇から続く九代 開化天皇までは、実在が疑わしい欠史八代とも呼ばれ、初代 神武天皇は伝説上の天皇とされています。
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1586年 天正14年駿府城 完成。徳川家康、駿府に公式に入府する。1589年 天正17年駿府城天守閣完成。1590年 天正18年徳川家康、豊臣秀吉の命により、江戸へ転封。豊臣家臣 中村一氏が入府。1600年 慶長5年 7月25日小山評定。中村一氏の名代 一忠、石田三成ら討伐に先立ち、徳川家康に駿府城明け渡しを同意。1600年 慶長5年9月15日関ヶ原の戦い徳川家康率いる東軍が勝利。1601年 慶長6年徳川家臣、内藤信成が駿府城主となる。1603年 慶長8年2月12日徳川家康、征夷大将軍となり、江戸に幕府を開く。1604年 慶長9年4月19日内藤信成、近江 長浜に転封。徳川家康、将軍職を三男、秀忠に譲り駿府城を隠居地にして大御所政治を開始する。 ③に続きます。
城郭 略年表 1 駿府城1337年 建武4年初代 駿河今川氏、今川範国 駿河国守護となるも、南朝勢力の抵抗により入府できず。1411年 応永18年3代 駿河今川氏、今川範政、現在の駿府城付近に駿府館を建設する。以後、駿河今川氏の本拠地として続く。1549年 天文18年9代 駿河今川氏、今川義元三河国 松平氏の御曹子、松平竹千代(後の徳川家康)が幽閉先の尾張 織田氏との人質交換により解放され、駿府に到着。今川氏の人質として生活する。1560年 永禄3年9代 駿河今川氏、今川義元桶狭間の戦いで織田信長に敗れ討死。嫡子、氏真が跡を継ぐ。1568年 永禄11年10代 駿河今川氏、今川氏真甲斐 武田信玄に攻められ、駿府館を落ち、遠江 掛川城に逃げるも、徳川家康に攻められ和睦し、妻の実家、相模の小田原 北条氏の下に逃れる。大名としての駿河今川氏滅亡。1585年 天正13年徳川家康、家臣 松平家忠に駿府城築城を命じる。②に続きます。
浜松御前崎自転車道線御前崎市浜岡町付近
浜松城公園浜松城公園は、浜松城天守閣を中心に、作左の森や美術館、芝生広場などが集まる公園で、初夏には家康公まつり、秋には紅葉まつりなど、1年間を通して様々なイベントが行われています。写真は、今年の家康公まつりの模様です。
史跡を訪ねると、周辺の写真も撮影しますが、大半の写真は投稿には使いません。メモリーカードの容量も増え過ぎる前に消去しますが、ならば!と思い、ついでに撮影した数々の写真、史跡界隈を紹介する形で投稿しようと考えました。1回目は、ぼくが今年 もっとも足を運んだ駿府城公園の家康公の散歩道です。家康公の散歩道は、家康公が晩年を過ごした駿府城の周囲を一周する歩道で、鷹狩り等で散歩したであろう城の周囲を再現したものです。
強風がおさまり、葵舟に乗れるようになりました。普段は見ることのない位置からの眺めを堪能しました。好評とのことで、来春の桜の咲く頃にまた開催される予定とのことです。
駿府城天守台発掘調査で、出土した品々が展示されています。ここには、笑福亭鶴瓶さんが番組のロケで訊ねたことがあります。
発掘中の駿府城天守台の模様です。
駿府城公園に来ました。お目当ての葵舟による水堀一週は強風のために休止とのこと…。家康公手植えのミカンは豊作です。
三輪山 平等寺奈良県桜井市三輪平等寺は西暦581年 敏達天皇10年、聖徳太子が賊徒退治を誓い大神神社に祈願した折に、十一面観音を刻んで寺を建立し、大三輪寺と称したのが始まりです。以来、永遠の平和を祈願する霊場として崇敬されますが、その後 衰退し、鎌倉時代に慶円上人が中心となり再興し、大伽藍を有する大神神社の奥の院として栄え、三輪山 平等寺と名を改めました。西暦1600年 慶長5年 関ヶ原の戦いで敗れた西軍の島津義弘と僅かな主従が逃げ込み、約70日間滞在して傷を癒して帰国しました。